1996年6月8日

「第三次出撃命令」

元第314航空団330大隊レーダ観測員

モリス・ボレーン

 

  1945年5月23日を期し、東京南部に対し最大級の作戦が予定された。マリアナ諸島に本拠を置く、ティニアンの第58航空団、第313航空団、サイパンの第73航空団、グァムの第314航空団の4航空団が参加する夜間焼夷弾攻撃であった。それぞれの航空団は、3個中隊からなる4大隊により編成され、全てB29スーパーフォートレスを使用した。日本までの3000マイルを往復できる航続距離を持ち、数量的にも十分な爆撃機としては他にはなかった。攻撃には、全て合せ520機が参加した。

  我々は、グァム島のノースフィールド航空基地に所属する第314航空団330大隊457中隊の代用乗組員であった。総員11名の構成は、機長B(Bobbie)・ジョンストン中尉、飛行士L(liv)・クロウウェル少尉、航路誘導員B(Bob)・フリスチェル少尉、爆撃手B(Bill)・ベンダー少尉、航空技師R(Ralph)・ドノホー伍長、無線技師G(George)・スピリチ曹長、中央機銃座射撃手O(Oliver)・ウェルチ伍長、右機銃座射撃手J(Jerry)・グロメステイン軍曹、左機銃座射撃手P(Paul)・ブッチャー軍曹、後尾機銃座射撃手E(Earl)・アレン軍曹、それから私、レーダ観測員のM(Morris)・ボレーン少尉であった。我々は4月半ばにグァム島に到着し、数回の訓練飛行を行ったあと、5月5日に四国の松山海軍飛行場、5月12日に神戸の川西飛行工場に対し、高高度からの昼間爆撃を実施した。それらの攻撃は、進行中であった沖縄上陸作戦を側面支援するものであった。両攻撃とも我々が「ミルク・ラン」と呼ぶもので、敵の反撃はほとんどなく、我々は編隊飛行し先導機の投下に合せて爆弾を投下した。

  5月23日の夜間攻撃に関する説明会では、飛行ルート、投下地点、気象情報について情報を与えられ、任務は目標地点を単独で飛行し、指定された高度12000フィート(約4千メートル)から爆弾を投下して帰投せよというものだった。特に基準目標点の上空を編隊飛行したり、指定時間に叩けというものではなかった。目標上空で500機以上が合流するため、到着時には他のB29もいるだろうということだった。我々は、35-500オンス焼夷集束弾を搭載していた。これは、着地前に各集束弾が炸裂し個々の爆弾を約50フィート置きに撒き散らすことで、非常に幅広く帯状の効果を挙げられるものである。

我々は、目標地点の北にある皇居周辺に対しては、いかなる爆弾投下も避けるよう注意を受けた。その後、トラックで補給所へ向い、落下傘、飛行服、ライフジャケット、飛行ヘルメットなど装備品を受け、Je Reviens(私は戻ってくる)という名の搭乗機K-11の駐機場で下ろされた。第330大隊の全機とも、縦翼に大きな字でKと記されていた。

  B・フリスチェルの記憶では、K-11の飛行記録にはコンパスの問題に関する言及事項があり、任務遂行に先立つ午後にジョンストンと彼、及び数名の乗組員で若干のコンパス稼働試験をしてみたという。全て良好に見え、グァムと硫黄島との間ではコンパスの稼働状況をモニターし、もし不具合があれば、途中で引き返してくるという判断が取られた。

  装備改めと各エンジン12枚のプロペラ回転翼の試験操縦ののち、日没の後2つの滑走路から大隊単位に飛行を開始し、各機ともほぼ一分置きに他の友軍機と日本へ向けて飛び立っていった。搭載されているAPQ-13レーダは、高高度では最大100マイルの有効範囲があるが、低高度では、その範囲は縮小される。またレーダは航路誘導の補助、及び夜間爆撃のために用いられ、昼間攻撃では目標の視界が模糊としている場合に用いられる。レーダによる爆撃の目標的中率は、爆撃手がノーデン式照準器でやれる確度とは比べ物にならないが、だからこそ私の意見では、焼夷弾攻撃に於いてはレーダ爆撃が最も望ましいと思われるのである。焼夷弾攻撃に於いては、全ての爆弾を目標に投下したいわけではない。広範囲に渡って散開させることが必要であり、まさに、その通りになったのである。

  私は、予定飛行航路沿いにマリアナ諸島から抜け出るまで、フリスチェルと何度か位置確認をし、それからレーダの電源をオフにした。航路誘導員は自位置でスコープを前にしていて、私がレーダをコントロールしている間じゅう、二人は同じ位置情報を得ていた。我々二人は航路誘導とレーダ操作について、同じ訓練を受けていた。硫黄島付近に到着したとき、もう一度位置確認をし、もう一度レーダをオフにした。コンパスの稼働状況は申し分なかった。

  その頃、L・クロウェルによれば、我々は日本と硫黄島の間にある、“恒久的”な気象前線に入ったとしている。B・フリスチェルも雲間に入ったと言って同意し、長い時間、我々は雲の中を飛行していた。

  私は前の方へ行き、昼寝を取ろうと、二つの爆弾室を隔てて前後の加圧隔室を繋いでいる密閉トンネルの後尾部分に向かい、そこで横になった。グァム島から北へ約1500マイル、硫黄島は日本との間に位置している。時速230マイルの速度で飛び、再びレーダが陸影を捕捉できる範囲に達するまで、あと二時間はあるはずだった。

  その後、私は起されて陸地は約100マイル先であると告げられた。私はレーダのスイッチを入れ、スコープの上の陸影を捜した。我々は2000フィートから12000フィートまで上昇し、レーダースコープの可視範囲を広げた。陸地に到着するはずの予定時間を随分と過ぎ、自分たちが何処にいるのか心配しながらスコープに何か映るのを待ったが、ついに80マイル先の陸影が映し出された。だが、陸が近くなっても、我々は位置の特定ができないでいた。我々が持っていた詳細地図は東京とその付近に限られていて、我々は明らかに、まるで違う場所にいた。もし東京の東にいるなら、陸地の投影はないはずだと判断し、我々は海岸に沿って東に向った。20分ほどして、名古屋の南の陸影が移り、自分たちの位置が東京の南西約100マイルに居ることがわかった。フラックスゲート式コンパスが、誤作動していたのである。

  我々は航路指標となっている熱海に向い、機首乗組員には前方の陸地に燃え盛る炎が見えた。指標を過ぎてジョンストンとドノホーは、通常の手順としてエンジン出力と電気出力を上げ、ベンダーは爆弾格納庫のドアを開けた。サーチライトが我々を捉え、周囲で高射砲弾による炸裂が始まった。目標地点には、他のB29の機影はなかった。余分に飛行距離を食ってしまったために、目標への到達が約一時間ほど遅れてしまい、上空を飛んでいるのは我々だけだった。 ほぼ同様の飛行航路を、500機ばかりが先行して辿っているので、敵は我々の飛んでいくルートを知っていた。レーダは窓のない“暗室”にあったし、私は爆撃の誘導で忙しかったから外を見られず、とにかく何が起きているのか分からなかった。航路指標を過ぎてから間もなく、私は15度右に航路修正の必要に迫られたが、航路修正の前に、ジョンストンが「こんちくしょう」と言った。40マイルの空爆に際して、これは大きな修正で、その理由の一つは多分、我々がフラックスゲート式のコンパスに代えて磁気コンパスを使わねばならなかったことにあると思う。後で思ったことだが、仲間はきっと右旋回して起きる戦闘に巻き込まれるよりは、そのまま飛んでいて何も起きない方が、よっぽどよかっただろう。投下目標よりは西に位置するが、それでも東京の範囲内だっただろうからだ。我々は概して東北方に飛んでいた。

  L・クロウウェルによれば、前方に高度2万フィートに達する煙の雲があり、搭乗機との間に猛烈な対空砲弾の炸裂があったという。B・フリスチェルは、アレンが搭乗機の後ろで対空砲弾が大量に炸裂していると述べ、B・ベンダーが「ちゃんと前を見てろ」と言ったという。

  事態は急展開を見せていた。一発の砲弾が第一エンジンの付属部分で炸裂し、火災を起こしたが、ジョンストンが作動停止をして止めた。もう一発は爆弾格納庫トンネルを突き抜け、ウェルチの中央機銃座近くまで達したが、こちらは爆裂しなかった。同じ頃、私は照準の合せ角度をベンダーに向かって叫び、彼はその情報をノーデン式照準器に組み込んでいた。照準器には、あらかじめ高度、速度、弾道情報が入れてあり、決められた照準角度が得られれば、爆弾投下に必要な一連の自動開路の引き金が引かれる仕組みになっている。非常に興奮した状況のなかで、私はあんまりいい仕事をしなかった。多分、目標が近くなりレーダの障害物になる爆弾格納庫のドアが開いて、それに合せてレーダアンテナの調整をしなければならないのに、やってなかったのだろう。二回ほど照準角度を叫んだだけで、後は目標の位置確認ができないでいた。

  B・フリスチェルによれば、別のエンジンの油圧が足らなくなり、ジョンストンがドノホーに、エンジンが作動している限りそのままで行けと言ったという。エンジンはそのまま作動した。油圧ゲージに繋がっている線が切れたことは明かであった。

  爆弾投下後の私の仕事は、自位置すぐ脇の後尾バルクヘッドから数フィート外へ出ているカメラ・ハッチからアルミフォイル製のレーダ撹乱材を投げ出すことだった。撹乱材は、幅半インチのアルミフォイル製で、縁の一方が3インチ角の接着版に張り付いている。直径3インチの巻きテープ状になっていて、それが3個セットで厚さ半インチ、幅3インチ、長さ9インチのパックに入っていた。投げ出すと空気抵抗を受けて接着版が剥がれ、フォイルがほどれて地上レーダを撹乱する仕組みである。機内は加圧してなかったので、私はすぐ後尾バルクヘッドを通って撹乱材を投げ始めることができた。マイクと飛行ヘルメットのコードは、カメラ・ハッチまで十分届く長さがあったのに、興奮していたので外れてしまい、他の乗員の話しから状況を知ることができなくなった。飛行機は滑降していたが、なぜかは分からなかった。もし、仲間が落下傘で脱出しているなら、後尾出口に向かうには、何人かは必ず自分の目の前を通らねばならないはずなので、つづけて撹乱材を投げ続けた。ハッチが作業の邪魔になり、撹乱材の大半を投げたときには、後尾の非加圧隔室をアルミフォイルでクリスマスツリーのように飾ってしまった。近くの予備電源装置にもフォイルがかかり、漏電してスパークしていた。ハッチから下を見ると、サーチライトを覗き込む形になり、下の敵は私の顔が分ったのではないかと感じた。撹乱材の束を投げる度にサーチライトは搭乗機から離れて行き、また戻ってきては我々を照らしているのが分った。後で分ったことだが、スピリチも前部隔室から撹乱材を投げていたという。これも後で分ったことだが、搭乗機が滑降していたのは、サーチライトを逃れて、できるだけ早く煙の雲のなかに逃げ込むため、ジョンストンが機を滑降させて速度を上げていたとのことだった。

  L・クロウウェルの記憶では、爆弾投下後も、日本側は我々の雲のなかに逃げ込もうという意図を察知して、先回りして雲と機体の間に対空砲火を打ち上げていたという。我々も回避行動をとったため、敵は機に直接砲火を向けてきたけれど、我々は右へ急旋回して雲のなかに入り、左に45度の旋回をした。時速300マイルで雲を抜けると、サーチライトは追ってこなくなった。東京湾の上を通るのは危険が大きすぎたので陸の上を飛び、15分で太平洋に出て硫黄島まで2時間の航路を辿った。

  2000フィートまで滑降して残りの3台のエンジンに最大の回転力を与え、我々は急ぎ東京の北を通過して目標空域を脱出した。それから半島上空を飛んで太平洋上へ抜け、南へ旋回して進路を取り帰投した頃は、既に朝日が昇り始めていた。航路に沿って少しづつ滑降していくことで、燃料を節約するに必要な高度を、我々は失ってしまっていた。しかし他方では、一機だけで敵の上空を飛び、誰も怪我をしなかったことは非常な幸運と感じ、有り難いことと思った。フラックスゲート式システムが不調と知ってから磁気コンパスを使い、それに加えてレーダが帰り道を割り出す手段になった。

  B・フリスチェルは、我々が予定飛行コースの東を飛び、日本から硫黄島まで伸びている一連の島嶼上空を視認とレーダによる陸影を辿ることで位置確認をしつつ進んだと述べている。これによって、もし落下傘で脱出か海上に墜落した場合、位置が特定できるので空軍による救助が可能になるはずだった。我々は損害の程度が分からなかったし、硫黄島まで辿り着けるかも確信が持てなかった。

  一時間程度余分に予定飛行時間を食い、一万フィートの飛行高度を失い、機が傾いて飛んでいることで余分に燃料を消費していたから、我々は硫黄島に着陸して燃料を補給したかった。しかし、硫黄島上空で問題が発生して飛行機は旋回を始め、グァム島より100マイルばかり近いサイパンに向かうという判断が成された。L・クロウウェルは、着陸許可が下りなかったのは濃霧によるためという。またこういう事も話している。別のB29が燃料が足らないとして管制塔に着陸許可を求め、車輪を出しつつ下りはじめていたが、管制塔からは足を引っ込めて去れと言われた。もう一度、後尾車輪まで出しているんだと言うと、また足を引っ込めて去れと言われ、着陸態勢に入っていると言うと、管制塔でまた別の声が聞こえたという。「こちらは―――大佐である。足を引っ込めて滑走路を飛び越えろ。お前らは落下傘で脱出して、飛行機は墜落させてしまえ」と。それでサイパン行きを決意したということだ。

  B・フリスチェルは、硫黄島上空には濃霧がかかっていて、まだ我々が島の北側にいるときでも、損害を受けた多数の飛行機が着陸許可を求め、島の管制塔が拒否していた様を無線傍受していたという。ジョンストンは私に、サイパンまであとどれくらいかと聞き、私は4時間だと答えた。またドノホーに、どれくらい燃料が残っているかと聞いたところ、答えは3時間半ということだった。それで、ジョンストンはサイパン行きを決意した。のち、大隊の戦友会で彼に決断の理由を訊いたところ、私の推測は長くてドノホーのは短い、それくらいの差ならなんとかなるかもしれないが、硫黄島の上で旋回を続けていたら、我々はついに一巻の終りとなってしまうかもしれない、いつまで飛行場が閉鎖されているか分らないから賭けに出たのだという。

  燃料が少なくなるにつれ、我々は飛行服や銃弾を含めて余分な装備品を飛行機から投げ捨てた。最悪の事態に備え、落下傘で降りるか海に突っ込むかで投票をし、大半の乗組員は落下傘降下に投票した(私は海に突っ込む方に票を入れた)。

  幸いにも、ジョンストンとクロウウェル、ドノホーの、一マイル毎にも騙し騙しの燃費節約の努力のおかげで、我々は無事に第73航空団が所属するサイパンのイズレイ飛行場に着陸できた。燃料が少ない状態でエンジンに燃料を送り続けるのは難しいのだけれども、有能なドノホーがやってくれたのだ。しかし、ランプに向かううちにも第二エンジンが停止した。のち、ドノホーの計算によると、6000ガロンを積んで飛び立って、戻ってきた時には約50ガロンしか残っていなかったという。どの燃料タンクに計測棒を入れても、ろくに計れないくらいしか残っていなかった。我々は16時間半飛び続け、うちエンジン3つで8時間半を飛んでいた。Je Reviens(私は戻ってくる)の名前の通りの飛行機であって、我々は、ほっと胸をなで下ろしたのである。

  B・フリスチェルによると、ジョンストンはサイパンの管制塔に、着陸行動は1回しかできない、滑走路を空けてくれと要請していたという。燃料がいつ切れるか分らないから、機体は非常な水平を保ちつつ滑空し、エンジンにできるだけ燃料を送らず、なるべく早くスロットルを切った。

  グァム基地への移動を待っている間、ランプにB32が駐機しているのが見え、何も困るようなことはしないからと搭乗員に約束して、機のなかを見せて貰った。B32を見るのは初めてであった。クロウウェルとフリスチェルによると、グァムへの帰投飛行はB24によったという。その日のうちに拾い上げられて母基地であるグァム島のノース・フィールドに舞い戻ったが、上部へ報告をしたところ、ああいった場合は任務を放棄してしまい、爆弾を投擲してグァムに帰投すべきであったとジョンストンは言われたという。中隊の飛行予定表を見ると、我々は翌日にも、東京の南部から中心にかけての夜間爆撃に召集がかかっていた。この時は予定コースを飛び、サーチライトで照らされた友軍機と翼を並ベて爆弾投下ののち、無傷のまま15時間を飛んで基地に帰投した。この攻撃で失った飛行機は、二日前に比べて多かったことが後で判明した。

  B・フリスチェルによると、我々の搭乗機の両サイドの機がサーチライトで照らされていたため、我々が真ん中でワルツでも踊っているかのように進むことができて、無事に戻れたのだという。

  K-11は修理ののち第330大隊に戻されて、更に別の任務に使われた。我々は6月10日に再びK-11に搭乗し、東京の北にある霞ケ浦海軍基地を昼間爆撃した。私が同機を最後に見たのは、着陸に失敗して硫黄島の滑走路脇でスクラップにされていた時のことと記憶しているが、他の人々によれば、それは違うという。

  振り返って見れば、B・ジョンストンがまだ存命中で、B・ベンダーが心臓発作に合って記憶が薄れる前に、この記述を書いておくべきだったと思う。彼らはこの話しに重要な付け加えができる立場にあったし、健康なうちに戦友会に出席していたのだ。J・グロメステインとE・アレンは本記述の前に亡くなり、戦友会の開催前には参加できなかった。

[終り] (翻訳:萩野谷敏明)